文芸部シリーズ
1話その1
季節は春。
入学式が無事に終わり、少しずつ静けさを取り戻しつつある校内を一人の少女、三浦美穂子が少しだけ急ぎ足で歩いていた。
この高校に入学したら、まず、どうしても行きたい場所があった。両親には先に帰ってもらって、少し迷いながらも奥へと進んでいく。
以前、聞かせてもらった話の中で、美穂子が一番気になったのが校内の一番奥にある部室棟の近くに立つ、一本の桜の木。他にも桜の木は植えてあるけれどそれだけが離れて植えてあるせいなのか、毎年、他の木よりも咲く時期が少し遅いのだと。
きっと、今年もこの頃に咲いているはず。
話を聞いたときから、絶対に会いに行くのだと決めていたから。
「ええと、ようちゃんに聞いたのは確かこっちであってるはず……」
学生はほとんどいないとはいえ、さすがに入学初日に堂々とは歩く度胸は美穂子にはなく、辺りを見回しながら少し遠慮がちに歩いていく。
本校舎を通り過ぎて、その奥。
部室棟の前を半分ほど通り過ぎたところで、少女は足を止めた。
彼女の目の前には、樹齢50年ほどの桜の木。
今が盛りと咲き誇り、かすかな風に薄紅の花びらをのせていく。
「……やっと、会えたね」
ぽつりとつぶやくと、美穂子はゆっくりと桜へと歩いていく。駆け寄りたい気持ちもあるけれど、なんだかそれももったいない気がした。
2メートルほど手前で立ち止まると、美穂子は桜を見上げた。
「はじめまして」
淡くて、でも、しっかりと根付いている木。
思っていた通りの素敵な桜。
本当に嬉しくて、彼女は自分でも気づかないうちに微笑んでしまう。
一番はこの高校に入学できたことだけれど、でも、ずっとこの桜の木に会いたいと思っていた。
こうしているだけで、ほっとできる。
美穂子は少しだけまぶしげに目を細めた。
よかった、ここに来れて。
「美穂子」
幼い頃から聞き慣れた声音に名を呼ばれ、彼女はゆっくりと振り返った。声の主はもう一人と一緒に、彼女へと近づいてくる。
「ようちゃん、淳先輩」
いとこの陽輔だけでなく、彼の親友の淳までそこにいたことに美穂子は内心どきりとしてしまう。よく考えてみれば、彼らは二人で行動していることが多くて、だから、今もあたり前ではあるのだけれど。でも、美穂子としては心の準備というものが少しばかり必要な相手だった。
「入学式が終わって、ここでぼーっとしてるのが美穂子らしいといえばらしいけど。おばさんたちは?」
身長は淳とほぼ同じ、顔立ちとしては少しだけ淳より男っぽいかもしれない美穂子のいとこにそう言われ、彼女は軽く頬を膨らませた。その動きに合わせて肩の中ほどまでのびた髪がふわりと揺れる。
「先に帰ったよ。それと、ぼーっとしてたわけじゃ、ないし」
「ああ、話してたんだ?」
美穂子の言葉を聞いた淳はさらりとそう言って、彼女へと柔らかな眼差しを向けた。彼が向けてくれる優しい表情が、何よりも自分の気持ちをわかってくれたことが嬉しくて彼女は満面の笑顔でうなずく。
「美穂子らしいね」
眼差しと同じ、優しい声音で淳がうなずいた。
「じゃあ、その挨拶は済んだのか?」
「うん。でも、どうして、ようちゃんと淳先輩がここにいるの?今日、休みでしょ?」
「部室に野暮用があったから。……っていうか、ようちゃんは止めろ、学校なんだし」
眉をひそめている陽輔を見て、美穂子は不思議そうに首をかしげた。
「でも、今までずっとようちゃんだったよ?」
「そうだけど」
隣の家に住んでいて、家族同然に育ってきたいとこ。
子供の頃からずっとそう呼んできたものを急に変えろといわれても、困る。でも、本人がそんなに嫌そうな顔をするなら、やっぱり変えたほうがいいんだろう。
しばし空を見上げて考えてから、美穂子は少しためらいがちに陽輔を見上げた。その隣で何かを必死に耐えているような淳の姿が一瞬だけ彼女の視界に入る。
「じゃあ……、ようちゃん先輩?」
一生懸命考えた末の言葉。
が、その後のリアクションは美穂子の予想外だった。
陽輔はやられたといったふうに天を仰ぎ、淳はといえば堪えきれなくなったのかぷっと吹き出して笑いだしてしまった。
それを横目でじろりと睨みつつ、陽輔は大きく息を吐く。
「だから、ちゃんづけは勘弁しろって……」
「いや、それいい、美穂子、それすっごくいい。気に入った。俺も今度「ようちゃん先輩」って呼ぼう」
「お前に先輩よばわりされたくないっ」
楽しそうに陽輔の肩に肘をのせる淳とうっとうしそうにその手を払いのける陽輔。そんな二人のやりとりはいつもの彼らのものだけれど、美穂子としてはちょっと戸惑ってしまう。
一生懸命、考えたんだけどな。
淳が笑ってくれているのは嬉しいけれど、なんだか、いつもどおりにからかわれているような気もする。
「そんなにうけなくても……」
「いや、美穂子らしくてかわいいなと思って。うん、本当にかわいい」
彼が美穂子に対してかわいいという言葉を使うことは、わりとよくあることで。だから、きっとその言葉に深い意味はないのだろう。ただ、そうは言っても可愛いと言われて嬉しくないはずはない。それが、淳であればなおさらのこと。
でも、陽輔の様子を見るとやっぱりなんだか嫌そうなので、彼女は素直に嬉しいような困ったような笑みを浮かべた。その微笑を見て、淳がさらに嬉しそうにうなずく。
「……じゃあ、陽輔先輩?」
「そう、それ。他は却下だからな」
ほっとしたように陽輔がうなずいた。
「残念だなあ。あ、俺と三人のときは「ようちゃん先輩」でよろしくお願いしたいな」
「ええ?でも、それだと、間違えちゃいそうなんですけど」
「絶対駄目」
陽輔は短くそう言ってから「そろそろ帰ろう、美穂子」とくいと顎を動かした。
「うん、今日は基本的に部活もないからそろそろ施錠の時間だ。陽輔の言うとおり、帰ろうか」
「あ、うん」
美穂子はこくりとうなずく。
そして、ふりかえって桜をもう一度見つめた。
また明日。
美穂子の心の呟きに答えるかのように、はらはらと花びらが落ちていく。
そして、彼女は先に歩き出している二人の後を追うために駆け出した。